「できぬとあれば、わしが静める。が、こなたにも、このくらいのさばきはつこうと思うがどうじゃ。武という文字は戈を止めると書くぞ」
(上泉秀綱;21頁)
「一方が死に、一方が勝つ……さなくば双方が傷つき倒れる。いずれにせよ、これは兵法家の恥辱でござろう。まことの武は、その文字の作りを見ても戈を止めると書かれている。せめて素手で白刃を取ってやれたら、取られた方も取った方も無事で済もう・・・・・・双方無事・・・・・・これが武道のめざす境地とすれば、兵法家も当然その工夫に苦心を積まねば済まぬと心得るがいかが?」
(上泉秀綱;73頁)
なんというか、この言葉は非常に、私の心臓を射止めてしまったわけです。
例えば、「文武両道」
例えば、「知は武にまさる」と、
「武」とは、いわば腕力のような、ただ相手を蹴散らすモノ、とそう思ってきたわけです。いち武道家の端くれとして。
それを、この台詞で一瞬にして覆されました。
この本で読んで、一番の収穫は、100頁足らず読み進めることで得られてしまったわけです。
後で、「剣禅一致」という言葉も出てきますが、この台詞を読めばその一見、矛盾してるような「剣禅一致」の意味も容易く理解できるというものです。
やはり剣聖、言うことが違います。
「人間は畜生界に住まう者は畜生界の言語、修羅界に住まう者には修羅界の言語しか通じないものなのだ。」
(上泉信綱;172頁)
うん、まぁ、そういうことですね。現代にも通じることだと思います。
「美しい女性の不幸は聞くに耐えない。いかに良人が剣聖でも、妻一人、守護し得なかったのか・・・・・・?そう考えるだけでもわが身を鞭打たれるような辛さであった。」
(上泉信綱;234頁)
いかに剣術が巧かろうとも、戦乱の世の中、ただ一人の力では、誰一人すら守ること叶わず。悲しき時代です。
「忍者」(357頁)
この言葉は面白いですね。
この筆者、明治40年生まれですが、この時期の人はすでに山田風太郎の影響を多大に受けていたわけですね。
「嬉しい時には言葉をつつしみ、悲しい時には涙をつつしめ。人間は何事によらず天をおそれる慎しみが第一」
(柳生石舟斎;453頁)
最近、理解されなくなりつつある、日本の美徳ですね。
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