「言語力」育成、脱「ゆとり」も…中教審が指導要領改定へ正直なところを言えば、世間でゆとりゆとりと嘆かれているほど、その学力の低下(ゆとり教育が原因によるもの)というのがいまいち実感できていない。
というのも、昨今の日本生徒、学生の学力低下の原因というのは、ゆとり教育の所為だ、と一概に云えるものなのか?という疑問を抱いているからである。
ソースに挙げている記事に「言語力」「文章表現力」「思考力」という語句が出てきているが、こういうものはそもそも学校で学ぶものなのか?という気がする。
普段から読書をしたり、新聞を読んでいれば、こういったものは自然に培われていくものではないだろうか?
漫画やアニメ、ゲームといった視覚効果をメインとする表現をするモノが増えてきている弊害と言えると思う。
とはいえ、こういったものは各家庭で読書をする習慣をつけていけば簡単に鍛えることができるものであるはず、学校でやらせようという方がおかしいように思える。
それに、現状でも国語の授業でこういうのは嫌になるほどやってるだろうし。
そしてもう一つの問題は、
各々の勉学に対するモチベーションであろう。
知的好奇心を持つということ、
そしてその好奇心を満たすことによる喜びを知るということ。
これは親や教師が何よりも先に子どもに教えるべき最優先事項と言っても過言ではないはずだ。
日常に溢れていることのいろんなものに疑問を持つこと、それが学問への第一歩なのだから。
これがこーなるのは当たり前、なんて考えじゃ学問なんて詰らない。
そういう意味では、ある意味で今までまともに学校にも行けなかった発展途上国の子どもの方がより勉学に対し意欲があるのも非常に納得がいく。
即ち、この日本の子どもたちは何も知らないのである。
圧倒的に遅れているはずの、発展途上国の子どもたちだって、自分たちが何も知らないということを知っているのに、ずっと進んでいるはずのこの日本に住む子どもは、自分が知らないということすら知らない。
知る喜びすら知らない。
これは、大きな損失である。
日本ほどこの点で遅れている国は、他にどこもないのではないだろうか?
「当たり前」や「常識」という言葉ははっきり言って勉学に対するモチベーションの低下にしかならない言葉であろう。
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