鎌田 慧 「新装増補版 自動車絶望工場」
読みました。
バブルの少しまえ、トヨタ自動車工場の劣悪な労働環境を実体験を含めて書かれたルポルタージュ。
ああ、おそろしい。
ブラック企業ってのは最近生まれた言葉ですが、そういう企業、そういう労働環境ってのは昔からいくらでもあったわけですね。
なにより日本を代表する企業がそのようなことを、当然のように行っているということ。
なんともおそろしい。
ただひたすらに効率化を求めた結果、安全度外視、労働者の健康も度外視、本当にただの使い捨てとして扱われる……。
海外なら間違いなくストライキだの暴動だのが起きそうですが、全くなんで。
労働者の救済たるべき労働組合も会社側と癒着して、アテにならない、だとか。
これは1970年代ぐらいの話ですが、あとがきによれば、今も当時と大して変わってないよ、と筆者が。
トヨタの車は買わないことにしよう……。
『 この労働は物を創ることではない。“組付ける”ことだ。もし、この仕事を十五歳の少年がぼくに代ってやったとしても、なんの不都合なことはない。コストが安くなるだけだ。かれとぼくとの人生経験、知識の差は仕事になんら反映しない。ただ、もし、かれが三四歳までの二〇年間、この仕事に従事したとするとかれが労働によって得た知識、熟練は一分二〇秒で完結するだけのものであり、それ以外の知識も、熟練も、判断力をも持たない。十五歳の少年以上に成長しない奇型のものになり、かれの人間性は、残業と睡眠時間を差し引いた、微々たる“自由時間”内で得られるごく限られた行動によってしか発展させ得ないだろう。』
(86頁)
『「愛される車を世界に」これがトヨタのスローガン。思いやりのある車、大事な人を運ぶ車、吉永小百合もそういいながら、ブラウン管の中から微笑みかける。それを作っている労働者たちが、緩慢に殺戮されていきながら、どうして人間優先の車ができるのだろうか。』
(214頁)
『 前年十二月、「首切りはしない」と会社が明記した『覚え書』があった。Mさんたちはこれを頼みの綱にしていた。が、これは、裁判所に持ち込まれた末、あっさり「無効」と裁決されてしまった。わずか六ヶ月の間に反古になってしまったのだった。その理由は『覚え書』に調印した労使双方の名前はタイプ印刷されたものであり、署名ではなかった。「署名押印」は有効だが、「記名押印」は無効だというものだった。』
(274頁)
これはちゃんと覚えておいたほうがいいかもしれない。
『 トヨタ工場の目に付く個所から、賃金袋にいたるまで、企業の代表標語である「良い品 良い考」のスローガンが掲げられている。これもまた、ルージュ工場の“Quality & Safety”に倣う標語を作るべく、社内募集したものを修正し、五〇年三月から大々的に張りめぐらしたものだが、フォードの標語から、“安全”が抜け落ちたところが、いかにもトヨタ的なものである。』
(289頁)
『人を減らす時、手待ちのある作業者には、何もさせず、しばらく遊んでもらう。そうすれば自他ともにヒマであることがわかり、もうひとつの作業を上のせしても抵抗されない。また、減らす場合は、成績の悪い者を減らすと、抵抗されてモラルの低下につながるので、反対に成績の良い者を減らすと積極的に協力される。』
(299頁)
恐ろしい理論である。
苛酷な労働環境で思考能力を奪い、こういう心理の隙間をつき、奴隷として洗脳していく……まともな企業なやることではない。
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