平岩弓枝 「老いること 暮らすこと」
読みました。
老いた母親の介護をしつつ、また自分も同じように老いていく。
老いと向き合い、そして少しずつそれを受け入れていく、という話。
こういうのを読むと本当に年取るのが怖く感じますね。
いや、本当に。
夜になると突然狂人のようになり暴れまわって、いもしない誰かと語り始め、
町を徘徊し始めるとか……
そして朝になると、そんなことすっかり忘れてごく普通の生活を始めるとか!
老いに対する理解は実際に老いていくことでしか、得られないのか……
正直、理解なんぞしたくはないわ!という気持ちもあり……
じゃあなんでこんな本読んだんだよ、て話ではありますが。
『 今の子供は、臆病で池の氷の上で遊ばないのではなく、賢いから、
下手をすればぱりっと割れて濡れねずみになる危険な遊びよりも、暖房のきいた部屋の中でテレビゲームに熱中するほうをえらぶのだ
(後略)』
(47頁)
賢さと臆病さは紙一重、というより、表裏の違いでしかないですよね。
『 二十代、三十代に書いたものの中で、私が老人と意識して登場させている人物はせいぜい六十代、驚いたのは五十代の後半の年齢の人物を老人にしていたことであった。
若かった私にとって、五十代後半は、もう老人と認めてしまう年齢であったのだろうか。
人間とは勝手なもので、自分が七十になってみると、五十代なぞまだ若者の範疇に入れてやってもよいくらいで、今の私が老人としてイメージするのは、八十代の後半以上となっている。』
(112頁)
五十代……壮年と老人の中間ぐらいのイメージがあります。
老人といえばまあ確かに……でもまだ定年じゃないですしね。
老人とまでいくと、腰が曲がって杖ついて歩いてるイメージが。
五十代でそこまでの人はあんまりいないんじゃないか、と。六十代でそこそこ出てくる感じですか。
『 同乗者がきょとんとしているので、例えば、レストランでカレーも出来ます、ハヤシもチキンライスもハンバーグも出します、あと、スープとかもやります。
などといった場合、「あと」は「その他」だし、「とか」は「など」のほうが普通の使い方じゃないでしょうか。』
(116頁)
こういう細かい言葉遣い……無意識に変な風に使ってそうで私も怖い……
敬語、とはまたちょっと違うんでしょうけど、公式な、というか、上品な?そんな話し方というのも、いざやろうとするとなかなか難しいもので。
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