違いなんか全く考えたことはありませんでしたが、
なるほど。
英文解釈と英文翻訳というのは全然違うのですね。
柳瀬尚紀 「日本語は天才である」
日本語談義書です。
著者の柳瀬氏、私はよく知らなかったんですが、
翻訳不可能といわれたジョイスの「フェネガンズ・ウェイク」を見事に日本語に翻訳した、当代随一の名翻訳家らしいです。
ちなみに私はジョイスもフェネガンズ・ウェイクも知りませんorz(腐
なのでいまいち凄さもよくわからないんですが、この書を読み進めていく上で、
なんとなーく、その一端を垣間見た気がします。
日本語談義なので、話は翻訳に関してだけでなく多岐に渡って展開されていきます。
うわ……今までずっと間違って遣って(しゃべって)たよ……と思うようなのも多々。
例えば、
七冠、七段、七百
一段落
みたいな。
これら、ナナカン、ナナダン、ナナヒャク、ヒトダンラク、て読んでた……。
でも正しくは、シチカン、シチダン、シチヒャク(!)、イチダンラク
だそうで。
特に七百がナナヒャクじゃなくてシチヒャクだというのは驚き。
『 七も同じように、次に和語・和訓がくる場合はナナとなり、漢語・字音がくる場合はシチになります。』
(184頁)
ちゃんと区別方法もあるので、気をつけたいところ。
七回忌もシチカイキなんですね。
しかし、シチヒャクだと一発変換できないな。このIMEはクソか……!
186~188頁にシチと読む七を遣う熟語が羅列されてるんですが、
眺めていると七がゲシュタルト崩壊してくる(笑
当然、七十もシチジュウだそうで。
そして、
英文解釈と翻訳の違い、として例として挙げられているのがこれ。
太陽が月に声をかける。
「You are a Full Moon.」
これを月が
「You are a fool, Moon.」
と聞き間違えてしまう。
そして月は太陽に怒ってしまう。
というもの。
なるほど、なるほど、ですよね。Fullとfoolを聞き間違えてしまって起こる誤解。
これは、この二つの英文をただ、日本語に訳しただけでは表現できないですね。
きみは満月だ。
きみはバカだ、お月さん。
どう見ても聞き間違えるような単語ではない……。
英文解釈としては正解でも、とても翻訳されているとはいえない……。
うーん。難しいですねえ。
『もう一度言えば、お月さんが怒った理由が日本語を読んでわかるように訳さなければ、翻訳ではないのです。』
(16頁)
翻訳に必要な能力は英語能力ではなく、日本語能力に他ならないのかもしれないですね。
「!」この記号って日本語なんですかね?
ああ、この「?」もですね。
正規の、というか、ちゃんとした文章を日本語で書くとき「!」「?」こういう記号を使うのはよろしくないのではないのか、という認識が私にはあります。
実際、小中高、大学の作文、小論文その他諸々で書いたものにこういう記号を使った記憶はない……し、こういうものの使い方を習った記憶もない。
小説とか書くのも、こういう記号を用いるのは、
その文章単体に説得力が無く、そういう記号の補助無しでは表現し切れない。
未熟な文章作成能力を露呈してるだけじゃないのか……ッ。
という見下しの感情も否めず。
でもこの本を読んで初めて知りましたが、夏目漱石や芥川龍之介、泉鏡花、尾崎紅葉、
石川啄木、宮沢賢治など大勢の名作家が使ってるんですね。
はあー、なるほどなー。
私が認識違いをしてたのか、肩肘張りすぎているのか、
はたまた、せっかくある道具だ、使わないのは損以外の何モノでもないだろう、というわけなのか。
だとすれば今後、小説に顔文字が多様されるようになったりもするのでしょうか。
もしかして、ライトノベルとかだと既に遣われてたりするんですか?
勢いでクエスチョンマークをつけましたが、この文なら、クエスチョンマークなくても疑問文だって通じますよね。
もしかして、ライトノベルとかだと既に遣われてたりするんですか。
て。
『 九十数年前に漱石が講演で使った差別語を、今日、ぼくは使いません。みんなが自ずと、だんだん使わなくなってきた。ある種の日本語が、だんだん使われなくなっていく。たとえ緩慢であれ、そういう自然な動きにまかせていいのではないでしょうか。不適切語検挙や不適切語自粛は、うわべだけをつくろう不自然な言語へと日本語をゆがめることになりはしないでしょうか。』
(99-100頁)
言葉狩りに対して異論を表明しつつも、言葉の変移には寛容、なんですね。
こういう考えがちょっと印象的でした。
あと、「言葉遣い」を始めとして、言葉を「ツカウ」は「使う」じゃなくて「遣う」を用いるのが今の一般教養というか、常識なのかなあ、と。
このブログで文章書くときもちょっと気にしてたんですが、普通に「使う」を用いてますね。
気にしすぎ、か。
『ついでながら、「子供」という表記も差別とおっしゃる人がいる。「子ども」という表記でなければならないというのは、ぼくに言わせるとお笑いです。「子ども」では「ガキども」「野郎ども」「男ども」「女ども」を連想して、かえって子供に申し訳ない。ぼくはずっと「子供」で通しています。』
(100-101頁)
言われてみると、確かに……。
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